เข้าสู่ระบบ二本目のカセットには、古い紙のラベルが貼られていた。 ――母さんが残したもの。 いのりはそれを指でなぞり、デッキへ差し込んだ。 カチャン。 再生ボタンを押すと、しばらく雨の音が続いた。『理人。これを聞く頃、あなたはいくつになっているのかしら』 女性の声だった。 優しく、少しだけ掠れている。 いのりは思わず背筋を伸ばした。「……理人さんのお母さん?」『お誕生日、おめでとう』 雨音の向こうで、女性が笑った。『十七歳ね。あなたが生まれた日も、こんな雨だった』 いのりは息を呑んだ。 理人の誕生日。 それは、まだ知らない。 彼自身も、自分の幼い頃の記憶をほとんど失っていた。『今日は、あなたの名前の話をしようと思って』「……!」 いのりはデッキへ顔を近づけた。 しかし、女性はすぐに言い直した。『いいえ。その前に、謝らなきゃいけないことがあるわね』 雨が強くなる。『あなたが小さい頃、私は何度も言ったでしょう。強い子になってね、って』 声が少し震えた。『誰かを助けられる人になってほしい。困っている人を放っておかない人になってほしい。そう願っていたの』 いのりは目を伏せた。 理人らしい。 あまりにも。『でもね、理人』 一拍。『あなたが誰かを助けられない日があっても、私はあなたを愛しているわ』 いのりの指が止まった。『誰かの役に立たなくてもいい。強くなくてもいい。逃げたくなったら逃げていいの』 雨音に、小さな物音が混じる。 女性が涙を拭ったのかもしれない。『だから、お願い』『自分の命を、誰かのために差し出さないで』「……お母さん」 いのりは唇を噛んだ。 理人は、何度も自分を犠牲にしようとした。 葉月のため。 巌のため。 いのりのため。 けれど母親は、ずっと前から伝えようとしていたのだ。 誰かを守れなくても、生きていてほしいと。 テープの中で、女性は深く息を吸った。『あなたの名前には、私の願いを込めました』 いのりの心臓が跳ねる。『でも、その願いに縛られないで』 そこで、録音が途切れた。 ザザッ。「……え?」 続きがない。 何度聞いても、雨音のあとには無音が続くだけだった。 やがて、別の日に録音されたらしい理人の声が流れ始めた。『母さんの声、久しぶりに聞いた』 年を重ねた理
三本目のカセット。 ラベルには、二〇二六年七月二十三日と記されていた。 いのりは再生ボタンに指を置いたまま、しばらく動けなかった。 あの日。 理人とペンション調へ来た日。 何度も時間を越え、何度も彼を失いかけた、すべての始まり。「……聞くよ」 カチャン。 ザザ……。『いのり』 理人の声だった。『ここからは、お前が忘れた話だ』 テープの奥で、車の走行音が聞こえる。 タイヤが砂利を踏む音。 ドアが閉まる音。 そして、若い女性の声。『ここ、本当に営業してるの?』「……私?」 いのりは息を呑んだ。 自分の声だ。 理人が笑う。『俺も知らない。お前が行きたいって言ったんだろ』『だって、夢に出てきたんだもん』 録音の中のいのりは、少し不機嫌そうだった。『湖と、古い建物と……鈴の音』 いのりは目を閉じた。 思い出した。 あの日、ペンションを見つけたのは自分だった。 何度も同じ夢を見ていた。 誰かが湖の向こうから名前を呼ぶ夢。 けれど、誰の声だったのかは分からなかった。『なあ、いのり』 理人の声が近づく。『怖いなら帰ろう』『……理人さんは?』『俺は、お前が行きたいなら付き合うよ』『そうじゃなくて』 短い沈黙。『理人さん自身は、どうしたい?』 いのりは顔を上げた。 あの時から。 自分は、彼に尋ねていたのだ。 理人自身の気持ちを。『……行ってみたい』 録音の中で、理人が答えた。『なんでか分からないけど、ここを知ってる気がする』『じゃあ、一緒に行こう』 足音が重なる。 二人分。 いのりは、涙を拭った。「……最初から、二人で選んでたんだ」 ザザッ。 音声が切り替わった。 今度は年を重ねた理人の声だった。『この録音を聞いた時、俺も驚いた』 紙をめくる音。『俺たちは、誰かに呼ばれて調へ来たんだと思ってた』 いのりは頷いた。 葉月。 巌。 未来の自分。 誰かが仕組んだ運命だと思っていた。『でも違った』 理人の声が、静かに続く。『夢を見たのはお前だ。でも、行くと決めたのはお前自身だった』 そして。『俺も、自分で行くと決めた』 いのりは膝の上で手を握った。 時間は壊れていた。 記録は書き換わった。 けれど、二人が交わした言葉まで、誰かに決められていたわけではな
二本目のカセットには、古い紙のラベルが貼られていた。 ――母さんが残したもの。 いのりはそれを指でなぞり、デッキへ差し込んだ。 カチャン。 再生ボタンを押すと、しばらく雨の音が続いた。『理人。これを聞く頃、あなたはいくつになっているのかしら』 女性の声だった。 優しく、少しだけ掠れている。 いのりは思わず背筋を伸ばした。「……理人さんのお母さん?」『お誕生日、おめでとう』 雨音の向こうで、女性が笑った。『十七歳ね。あなたが生まれた日も、こんな雨だった』 いのりは息を呑んだ。 理人の誕生日。 それは、まだ知らない。 彼自身も、自分の幼い頃の記憶をほとんど失っていた。『今日は、あなたの名前の話をしようと思って』「……!」 いのりはデッキへ顔を近づけた。 しかし、女性はすぐに言い直した。『いいえ。その前に、謝らなきゃいけないことがあるわね』 雨が強くなる。『あなたが小さい頃、私は何度も言ったでしょう。強い子になってね、って』 声が少し震えた。『誰かを助けられる人になってほしい。困っている人を放っておかない人になってほしい。そう願っていたの』 いのりは目を伏せた。 理人らしい。 あまりにも。『でもね、理人』 一拍。『あなたが誰かを助けられない日があっても、私はあなたを愛しているわ』 いのりの指が止まった。『誰かの役に立たなくてもいい。強くなくてもいい。逃げたくなったら逃げていいの』 雨音に、小さな物音が混じる。 女性が涙を拭ったのかもしれない。『だから、お願い』『自分の命を、誰かのために差し出さないで』「……お母さん」 いのりは唇を噛んだ。 理人は、何度も自分を犠牲にしようとした。 葉月のため。 巌のため。 いのりのため。 けれど母親は、ずっと前から伝えようとしていたのだ。 誰かを守れなくても、生きていてほしいと。 テープの中で、女性は深く息を吸った。『あなたの名前には、私の願いを込めました』 いのりの心臓が跳ねる。『でも、その願いに縛られないで』 そこで、録音が途切れた。 ザザッ。「……え?」 続きがない。 何度聞いても、雨音のあとには無音が続くだけだった。 やがて、別の日に録音されたらしい理人の声が流れ始めた。『母さんの声、久しぶりに聞いた』 年を重ねた
一本目のカセット。 いのりはケースからテープを取り出し、古いデッキへ差し込んだ。 カチャン。 再生ボタンを押す。 ザザ……。 聞こえてきたのは、理人の声ではなかった。『記録。二〇二〇年二月十八日』「……え?」 女性の声。 知らない。 けれど、その日付に胸がざわついた。 二月十八日。 また。 自分の誕生日。『患者氏名、西園寺理人。十七歳』 いのりの呼吸が止まった。 二〇二〇年。 理人が一度、死んだとされている年。 以前見た墓石。 ――西園寺理人 2003―2020。 テープには病院の記録らしい音声が残されていた。『午前二時十三分、心停止』 機械音。 誰かの慌ただしい声。 そして。 長い電子音。 いのりは膝の上で拳を握った。 分かっていた。 知っていたはずなのに。 十七歳の理人が死ぬ瞬間を「音」で聞くのは、まるで違った。「……理人さん」 音声はそこで終わらなかった。『午前二時十四分』 女性が息を呑む。『……何、これ』 雑音の向こうで、別の人物が叫んだ。『窓!』 カーテンを開ける音。『光ってる……?』 病室の外。 真夜中のはずの空が、一瞬だけ明るくなったという。 朝日ではない。 月でもない。 細い光。 いのりは立ち上がった。「同じ……」 一九八三年二月十八日。 二〇〇一年七月二十四日。 そして。 二〇二〇年二月十八日。 同じ光が現れている。 テープの中で、誰かが小さく言った。『鈴の音……?』 チリン。 その瞬間。 録音が途切れた。 無音。 数秒後。 今度は理人の声が流れた。『これを聞いた時、俺も驚いた』 年を重ねた理人。『この記録を手に入れたのは、調を閉じたあとだ』「誰から……?」『巌が持ってた』「おじいちゃん?」『あいつ、本当に何でも隠してたな』 少し呆れた声に、いのりは泣きそうなのに笑ってしまった。『俺はずっと、自分がどうして一九七二年へ飛ばされたのか分からなかった』 十七歳で死んだ。 目を覚ましたら、一九七二年の湖畔。 そこから理人の人生は始まり直した。『でも、この記録を見て一つだけ分かった』 声が低くなる。『俺が消えた日と』 一拍。『お前の誕生日が同じだった』「……」 いのりは思わず首を振った。「でも、年が
二〇〇一年七月二十四日。 ペンション調を閉じた、翌朝。 いのりは古い鍵を掌に載せたまま、カセットデッキを見つめていた。 昨夜、理人たちは最後の灯りを消した。 客室にはもう誰もいない。予約表も、宿直記録も必要ない。それでも理人はいつもの時間に目を覚まし、誰もいない食堂へ降りたらしい。 巌も、すみえもまだ眠っていた。 理人は一人でコーヒーを淹れた。『静かだった』 再び回り始めたテープから、年を重ねた理人の声が聞こえる。『ずっと欲しかったはずなのにな。何も起きない朝が』 時間から外れた人間も来ない。 時計も止まらない。 鈴も鳴らない。 なのに、何かが足りないような気がしたという。『だから湖まで散歩した』 いのりは目を閉じた。 五十二歳になった理人が、閉館したペンションを背に湖へ向かう姿を想像する。 夏の朝。 風。 鳥の声。 あまりにも普通の世界。 午前六時十二分。 湖から朝日が昇った。『それを見て、笑ったよ』「どうして?」『昔だったら、何かの意味を探してただろうから』 いのりは小さく笑った。 理人は変わった。 光を見れば時間移動を疑い、鈴が鳴れば誰かを救わなければと思っていた青年は、朝日をただ朝日として見られるようになった。『綺麗だった。それだけでよかった』「……うん」『ところが』 理人の声が止まった。 ノイズ。 ザザ……。『午前六時十三分』 いのりの指が、わずかに強張った。『湖の真ん中に、もう一本の光が出た』「……!」 朝日とは違う。 一九八三年二月十八日。 午前二時十三分。 真冬の湖に現れた、あの細い光。 十九年近く前と同じ光が、水面をまっすぐ理人の足元まで伸びてきた。『でも、今度は分かった』 いのりは息を止める。『あれは、道じゃなかった』 時間を越える道ではない。 誰かを連れ戻すためのものでもない。『だから歩かなかった』 理人は湖畔に立ったまま、ただ光を見ていた。 すると。 チリン。 鈴が鳴った。 一度だけ。 理人は鈴を持っていなかった。 花の鈴でもない。 月の鈴でもない。 どこから聞こえたのか、最後まで分からなかったという。『それから声がした』 いのりの鼓動が速くなる。『十九年前と同じ声だった』 ――理人さん。 若い女性の声。『今度は
カセットから聞こえた理人の声は、いのりが知っている二十三歳の頃よりずっと低く、穏やかだった。『二〇〇一年七月二十三日。今日、ペンション調を閉じる』 いのりは思わず顔を上げた。「今日……?」 旧ペンションの看板に残されていた文字を思い出す。 ――2001年閉館。 理由までは、どこにも書かれていなかった。『経営不振じゃないぞ』「そこ気にするんだ」『一応言っておかないと、お前なら勝手に心配しそうだからな』 五十四年も前へ別れた相手に性格を読まれている。 悔しい。 でも、少し嬉しい。 テープの向こうで、理人が小さく笑った。『客は来てた。むしろ、まだ続けられた』 一拍。『でも、続けられることと、続けるべきことは違う』 ノイズが走る。 いのりは黙って耳を傾けた。 その年の春。 理人は巌、すみえと三人で話し合ったという。 時間から外れた宿泊客は、もう何年も現れていなかった。午前二時十三分になっても時計は止まらず、湖に不自然な光が現れることもない。 花の鈴も。 月の鈴も。 もう、誰かを導こうとはしなかった。『最初は寂しかったよ』 理人の声が続く。『ここが普通のペンションになったことが』 普通になる。 それは本来、喜ぶべきことだった。 なのに三人にとっては、長い間背負ってきた役目がなくなることでもあった。『巌が言ったんだ』 声の向こうで、懐かしい祖父の言葉が蘇る。『終わったものを、終わってないことにするな』 いのりは目を閉じた。「おじいちゃん……」『葉月を待つ必要もない。未来から来る誰かを待つ必要もない。俺たちがここを守らなきゃならない理由も、もうない』 そして巌は笑ったという。『だったら、終わりでいいだろ』 理人はすぐには答えられなかった。 ここは、彼が初めて自分の人生を選んだ場所だった。 巌と喧嘩した。 すみえと働いた。 客を迎えた。 笑った。 泣いた。 そして、いのりを想いながらも、いのりのためだけではない人生を生きた。 ペンション調は。 理人にとって、家だった。『だから俺は、自分で閉めることにした』 いのりの胸が締めつけられる。『大切だから残すんじゃない』『大切だからこそ、終わらせる』 それは。 人との別れにも似ていた。 終わらせることは、なかったことにすることで